グイノ。ジェラール神父の説教
C 年
復活節から
キリストの聖体の祭日まで
復活祭の祝日
復活節第2主日
復活節第3主日
復活節第4主日
復活節第5主日
復活節第6主日
主の昇天の祭日
聖霊降臨の祭日
三位一体の祭日
キリストの聖体の祭日
復活の主日C年 2016年3月27日 グイノ・ジェラール神父
使徒10,34,37-43 コロサイ3,1-4 ヨハネ 20,1-9
キリストの復活の記念日に当たって、私は自分の四十周年の叙階の記念を祝うことにしました。 復活の出来事は私たちの信仰の中心であり、毎日曜日私たちは一緒にこの出来事を祝っています。 すべてのミサ祭儀は復活されたキリストと私たちを親密に結び合います。 私が皆さんの間で神の偉大な愛といつくしみの神秘を証しするために、復活したこのキリストこそ私を選び、遣わしました。 神は愛、いつくしみと永遠の命です。 キリストの復活と私たち自身の復活は神に栄光を与え、私たちを三位一体の神の命の中心に引き寄せるのです。
私が五歳の時ミサ祭儀の中で、初めて神は命、光、愛として私の目の前にご自分を啓示なさいました。 つまり、司祭が皆様に見せるご聖体は生きていて、拝領する人々を光で包み込むことを私はびっくりした目で見ました。 何度もそれを見たので、段々私の心にこのご聖体を自分の手で持ちたいという望みが湧き出てきました。 ご存知のように、このご聖体を手で持つという行為は、第二ヴァチカン公会議の前は司祭たちだけが許されていました。 このようにイエスは、後に私が歩むべき道を教えてくださいました。 私は七歳の初聖体の日まで、毎日曜日に生きているご聖体を見続けていました。 イエスは初聖体の時から私の心の奥底に働いているので、その後外面的に彼を見ることはもう必要ではなくなりました。 むしろ私はイエスを自分の内に探すことを学ばなければなりませんでした。 それで、イエスを手に入れるために十一歳になって小神学校に入りました。 神の呼びかけに応えるのは言い表せない喜びと共に、キリストに従うために大きな飛躍を与えることを皆さんもよく知ってください。
不思議なことですが、神学校で学んでいる間、イエスは日本の歴史や文化などについて興味を持たせ、私が日本に魅力を持つようにしました。 それにも拘らず、私はフランスの自分の教区の司祭になることを心に大事に育てました。 ですから、パリ外国宣教会の道の方へ私を引っ張るために、神の特別な恵みや新しい呼びかけが必要でした。 しかし、それはもう一つの話です…。 初めに私はベトナムの宣教師になるはずでした。しかしイエスはユーモアをもって、日本に私を遣わしました。 日本はヨーロッパのように発展していて、豊かで、安全な国だったので、私は日本には行きたくはなかったのです。 しかし、神の望みを自分自身の望みとしたので、今、私はとても恵まれて、幸せな宣教師です。 皆さんの所に遣わされたことを神に感謝します。 イエスは生きておられる優しい友であり、いつも忍耐と心遣いを示し、時々ユーモアをもって私たちと共に、そして私たちの内で行動します。 神の摂理はいつも働いています。 なぜなら、神は呼ばれた人を絶対に途中で見捨てませんから。 私は、これについて生涯にわたって証ししたいのです。
私に与えられた司祭職によって、皆さんは神の言葉に興味を持ち、待ち望み、愛するように努めようとします。 なぜなら神の言葉は人を救い、養い、癒し、力づけるからです。 私はミサを捧げることによって、私たちがお互いに結び合い、キリストと共に一つの体と魂とすることの可能性をイエスに与えます。 ミサ祭儀を通して、イエスは私たちを神の命に生かし、私たちを愛といつくしみの泉へと変化させ、光り輝く者とします。 キリストの復活は神ご自身の喜びを私たちの心に注ぎます。 そういう訳で、イエスと彼の教会は、毎日曜日に私たちをここに誘うのです。 主の日は復活の日であり、私たちが神の完全な者となるように、神はご自分のすべてを私たちに与える日です。 まだ、私たちがそれを見なくても、復活されたイエスの聖とする光で包まれています。 それをいつも見ている天使たちは、喜び、拍手を送りながら、私たちに与えられた恵みに与かりたいと熱望しています。 なぜなら、彼らは聖体拝領ができず、キリストと共に一つの体、一つの心、一つの霊になれないからです。
キリストの復活は、神が私たちの内に生きておられることを証ししています。 私たちの神は、私たちを愛し命を愛するので、この命を永遠に豊かに私たちに与える神です。 キリストの復活は祝うべき過去の出来事ではなく、今、ここで、私たちを神ご自身の命で生かす、この瞬間です。 これについて私たちが絶えず証ししなければなりません。 また、それを絶えず祝う必要があります。 もし「キリストと共に死んで復活させられている」(コロサイ2,12-13)なら、神がおられるところで、私たちは既に一緒にいるのです(参照:ヨハネ17,24)。 私たちは既に神の命に生きているのです。 しかし、私たちはそれを十分信じているでしょうか。 とにかく、司祭として、またキリスト者として私たちはこの神の命に奉仕しなければなりません。 キリストの復活の栄光に照らされ、聖霊の力の恵みと教え導きに支えられ、今日一緒に、神に感謝しましょう。 キリストの復活が与える貴重な恵みと、私に与えられた司祭職と使命のために大いに感謝しましょう。 アーメン。
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復活節第2主日 C年 2016年4月3日 グイノ・ジェラール神父
使徒5,12-16 黙示1,9-13,17-19 ヨハネ20,19-31
恐怖に襲われた弟子たちの前に、死に打ち勝って復活されたキリストが現れました。 それは彼らを平和といつくしみの内に父なる神へ導くためでした。 その一週間後にイエスは、トマスを疑いから信仰へ導くためにもう一度現れました。 キリストの教会は、弟子たちの恐怖と疑いから生まれたという事実を聖ヨハネは上手に説明しました。 復活されたキリストを信じることは容易ではありません。 この信仰は、どうしても疑問と質問と恐れで育てなければならない信仰です。
疑いはいつも恐れと不信を生み出すのです。 アダムとエバは神の誠実さを疑ったので、罪を犯して恐怖に襲われました。 同様に長い歴史を通してイスラエルの民は、いつも神に対して不信を示しました。 信じるためにこの民は、神に数えきれない証拠を要求しました。 しかし、その証拠を受けるたびにイスラエルの民は神の全能を恐れ、神からますます離れました。 イスラエルの民にとって、偶像礼拝は無害で強制のない礼拝であり、そのうえ元気を回復させる礼拝でした。 私たちは皆、信じることはとても難しいと知っています。 神についてたくさんのことを知っていても、それを信じることは至難の業です。 神の言葉と神が啓示した誠実さにより頼むことよりも、私たちは自分が確かめたことだけを信じ、多くのものに疑いを持つことを好みます。 そのために私たちは神に対してある種類の恐れを持ち続けています。 もし私たちが回心したいと望むなら、それは神の愛のためではなく、むしろ神の裁きと地獄を恐れているからです。
疑いは平和を遠ざけます。 ご自分の死と復活の前に、イエスはたくさんのしるしを行いました。 それは自分自身が「反対を受けるしるし」(ルカ2,34)であることを示すためでした。 復活後イエスはもはや印を行わずに、ご自分の平和しか与えません。 なぜなら、イエスの弟子たちは皆、目に見える「神の国のしるし」でなければならないからです。 今日、私たちにキリストの平和が与えられているのは、私たちが神の国のしるしとイエスの復活の証人となる使命を実行するためです。 「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ14,9)とフィリポに言われたキリストは、私たち一人ひとりに次のように言います。 「人々があなた方を見ることで、またあるいは私の教会を見ることで、わたし自身と父なる神を見るように望みます。 『二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる』(マタイ18,20)からです」。
復活されたイエスの周りに集まっている私たちは、キリストの教会です。 確かに私たちは目に見えない神の目に見える顔です。 互いを見つめ合って兄弟姉妹として互いを愛し合うことによって、キリストが本当に復活されたことを体験し、そしてキリストの命、平和といつくしみが私たちを生かしていることを悟ります。 このいつくしみの日曜日に当たって、私たちの周りにイエスの平和、赦しと愛を広げる恵みを神に願いましょう。
いくら信じることは個人的な決断であっても、私たちはその決断を度々新たにする必要性があります。 ここでキリストの教会として集まっている私たちが、私たちの信仰と希望を強めます。 人は一人でキリスト者とはなれません。 信仰と愛の完成に辿りつくために、お互いに支え合うことが肝心です。 ですから、今日もまた聖トマスと共に「主よ、あなたは私の主、私の神」と宣言して、そして何よりも先ず、私たちの人生においてこの信仰を宣べ伝えましょう。 アーメン。
復活節第3主日 C年 2016年4月10日 グイノ・ジェラール神父
使徒5,27-32,40-41 黙示録 5,11-14 ヨハネ 21,1-19
主に向かって「主よ、心を尽くしてあなたを愛しています」と私たちは言いたいです。 しかし、残念ですが神が私たちを愛しているように、私たちは神もお互いも愛せない者です。 その理由は、私たちは自分の利益を探し求めて愛し、あるいは特別な恵みを受けるように神を愛そうとするからです。 この世を造る前に、神は最初に私たちを選び愛しました。 さらに、神は完全なお方なので、私たちの愛を全く必要としません。 神は何もいらないと同じ程に、私たちが完全になる為には神を必要とするのです。 完全な愛で神が私たちを愛していることを知ることは、光の中に生きることです。 光の中にいる人々は何も照らさないで、むしろ、彼らが光によって照らされて輝いています。 ご自分のいつくしみとご自分の子イエスの復活によって、神はご自分の愛を与え、私たちを愛する光の子供に変化させました。 この愛を受けながら、私たちは愛すること、神のようにいつくしみ深い人となることを学ばなければなりません。
今日の不思議な漁の話はそれを具体的に教えています。 神の助けがなければ私たちは何もできません。 私たちのすぐそばに神の現存と神の言葉の支えがなければ、私たちはどこへ行けば良いか分からずに、自分の勝手な欲望や自分の殻に閉じこもります。 神の愛と言葉は、私たちの心を大きく開き、私たちの眼差しを照らし、私たちの人生からよい香りを放ちます。 「イエスの羊の群れの牧者」となるために、ペトロはイエスの愛と赦しを承諾することが必要でした。 「イエスを知らない、イエスと関係ない、彼の弟子たちも知らない」と三度断言したペトロにとっては、恥ずかしさと悔恨の思いを乗り越えることが必要でした。 イエスが自分に示した揺るぎない愛によって、ペトロはそれができました。 イエスが絶えず私たちのために祈り、また父なる神の前で絶えず執り成してくださっているからこそ、私たちも、自分たちの失敗、過ち、犯した罪にもかかわらず、信仰の内にしっかり立つことができるのです。
不従順によって神に逆らったアダムとエバは、自分たちが裸であることを発見して、神に対して恐怖を感じエデンの園の木の間に隠れました。 しかし、岸に立っている復活したイエスを発見したペトロは、恐れず自分を隠さず、ただ裸であったので服を着てから、イエスのそばに行くために湖に飛び込みました。 イエスの友情に支えられたペトロは、自分の不忠実さ、恥ずかしさと悔恨の思いを完全に忘れて、イエスに自分の友情と愛を宣言します。 「主よ、あなたは何もかもご存知です。 わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と。 ペトロは自分の失敗を忘れてしまい、イエスの揺るぎない愛だけを思い出して、イエスに忠実に留まるためにその愛を重大な支えとしました。 「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが…その悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16,20)というイエスの約束をペトロは忘れていませんでした。 イエスに対する自分の愛を宣言することによって、ペトロは自分の心を完全に満たす大きな喜びを感じていました。
神の忠実さはいつくしみのマントで私たち一人ひとりを覆います。 そしてキリストの復活は、愛と喜びと光で私たち一人ひとりを包むのです。 私たちが神に示した信仰によって、私たちは赦され、救われた罪びととなるからです。 神の愛のお蔭で、私たちは罪状と悔恨の恥ずかしさの岸から離れ、いつくしみと赦しがある反対側の岸に立っているキリストに辿り着く力を与えられます。
日常生活の中で私たちはいつもイエスと出会うことができます。人間になった神の謙遜をもっている人として、イエスは私たちのすぐそばにおられます。 ですから、ご自分を表す出来事や場所や人々を通してイエスを見つけ、歓迎しましょう。 例えば、自分の心の奥底に、イエスの名によってここに集まっている私たちの間に、更にはキリストと親密に一致させるご聖体の内にイエスを見つけ、歓迎しましょう。 イエスなしには私たちは何もできません。 しかし、イエスに結ばれて私たちが行ったすべての物事は、永遠に値打ちを受けます。 復活されたイエスは「すべての人を自分のもとへ引き寄せる」(ヨハネ12,32)ので、彼に従い走りましょう。 イエスは必ず父なる神のもとへ私たちを導き連れて行きます。
もちろん,私たちはペトロよりも強い者ではありません。 きっとペトロのように私たちも、次々に不忠実から忠実へと進むでしょう。 それにもかかわらず、イエスを強く信じましょう。 イエスこそは愛であり、その愛は終わりがありません。 私たちを赦すため、そして立ち上がらせるため、また私たちに「さあ、私の後に来なさい、私に従いなさい」というために、イエスは愛といつくしみの岸で私たちを待っています。 それを決して忘れないようにしましょう。 アーメン。
復活節第4主日 C年 2016年4月17日 グイノ・ジェラール神父
使徒13,14,43-52 黙示録7,9,14-17 ヨハネ10,27-30
聖書はいつも民の牧者として神を紹介します。 「主はわれらの牧者、わたしはとぼしいことがない」(参照:詩編23,1)「主はわたしたちの神、わたしたちは神の民、主に養われ、御手の内にある群れの羊」(参照:詩編95,7)。 来たるべきメシアも羊飼いの姿で預言されています。 「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め小羊をふところに抱き、その乳を飲ませている者を優しく導かれる」(参照:イザヤ40,11)。 キリストは良い牧者の務めを完全に実現します。 イエスは失われた羊を探し求める良い牧者です。 イエスは人々を憐みの眼差しで見、彼らを「弱り果て、打ちひしがれている飼い主のいない羊のように」(参照:マタイ9,36)見ています。 またイエスは自分の弟子たちを「小さな群れ」(ルカ12,32)と言い、さらにペトロはイエスを「魂の牧者」(1ペトロ2,25)と呼び、そしてヘブライ人への手紙ではイエスを「永遠の契約の血による羊の大牧者」(ヘブライ13,20)と記しています。
聖ヨハネの福音は、どうしてイエスが良い牧者であるかを教えています。 まず、羊飼いと羊の間でお互いの知識があります。 「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 …彼らはわたしに従う」(ヨハネ10,14,27)。 良い牧者であるイエスは一人ひとりをその名によって呼びます(参照:ヨハネ10,3)。 聖書によると、人の名を知ることはその人の心の奥底まで親密に知ることです。 イエスは私たちのすべてを知っているし、個人的な愛で愛します。 それは一人ひとりが、かけがえのない固有の存在として、愛されているのです。 各個人が唯一の存在なので数えるなら、数は一(いち)しか存在しません。 それは一人ひとりを大切にするからです。 ご存じのように、ただ一匹の羊を見つけるために、イエスはすべての羊を置いて行きます(参照:マタイ18,12-13)。
イエスは命がけで私たちを愛していると、聖ヨハネは教えています。 良い牧者であるイエスは自分の命を与え、そして誰も彼の手から羊を奪うことができません。 ご受難によってキリストは、私たちのために命を捧げる良い牧者であることを証ししました。 ご自分の死と復活によって、イエスは私たちに永遠の命を与えました。 今から後、私たちは父なる神の手の中に置かれているのです。 誰も父の手から私たちを奪うことができない、とイエスは断言しました。 なぜなら、神ご自身がすでに次のことを教えたからです。 「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつけた」(参照:イザヤ49,16)と。 神の手の中に置かれることは、思いやりのある現存によって包まれていることです。 それはまた、将来起こるべきすべての出来事を私たちは、父の手の中で平和のうちに憩うことを知ることです。
キリストの血によって贖われ、イエスである神の小羊によって救われた私たちは、すべての試練を耐え忍び乗り越えるように強められているのです。 黙示録が教えているように「私たちは、すでに昼も夜も神の前に立っている、数えきれないほどの大群衆です。 良い牧者であり屠られた小羊であるイエスは…命の水の泉に導き、私たちの目から涙をことごとくぬぐわれます」(参照:黙示録7,17)。
神の手に絶対に留まるように、聖ヨハネは実現するべき四つのことを教えています。 まず、私たちの人生に深い意味を与えるイエスの言葉を注意深く聞くことです。 次に、イエスが父と共に分かち合う親密さを発見し、分かち合うことを望むことです。 それはイエスが持っている正義と真理への飢え渇きを持つためです。 結局、キリストをもっともっと知る努力をすることです。 なぜなら、キリストを知れば知るほど、私たちが神の目には値高く貴いものであることを悟るからです(参照:イザヤ43,4)。 またキリストが「道・真理・命」(ヨハネ14,6)であるからこそ、私たちは信頼のうちにイエスに従わなければなりません。 特に、見知らぬ所まで「枕する所もない」(マタイ8,20)ことを知らずに、盲目的にキリストに従わなければなりません。 最後に、いつくしみ、赦し、分かち合いの行動によって、私たちは自分の命を与えることを学ばなければなりません。 御子イエスによって私たちは神からすべてをいただいたので、恐れずに深い信頼をもって、父なる神のいつくしみの手に体を擦り寄せましょう。 アーメン。
復活節第5主日C年 2016年4月24日 グイノ・ジェラール神父
使徒 14,21-27 黙示録 21,1-5 ヨハネ13,31-35
今、耳にした「栄光」という言葉は、今日の福音の中心にあります。 私たちの知識によれば、この言葉は特に名声、人気、良い評判、光栄を意味します。 しかし聖書の教えによれば、栄光は人の個性の質の良さ、人の存在の重大さ、人が全ての力を出す可能性、そして人の愛の強さを表しています。 この意味で、すべての光栄の土台となる最高の栄光は、神にのみ属するものです。 そしてまた、神が与えようとする人に属するものです。 さて、聖ヨハネの福音によると、受難に直面する前にイエスは私たちを救いたい父なる神の限りのない愛を示しました。
「今や、人の子は栄光を受けた。 神も人の子によって栄光をお受けになった。 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる」とイエスは弟子たちに教えています。 注目するべきことは、ユダがイエスを裏切るために夜の暗闇の中に出て行った時に、イエスは栄光を受け、そして父なる神がイエスによって栄光をお受けになりました。 ご存知のように神の栄光は、キリストの受難と復活のうちに全力を発揮します。
イエスによって、私たちが受けた救いの恵みのために、私たちは今日もまた、神に感謝しています。 私たちが信仰によって親密に、秘跡的に、キリストと一致しているので、私たちは神に感謝を捧げます。 言い換えれば、キリストの栄光は私たち自身の栄光です。 「わたしたちは皆、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられています。 これは主の霊の働きによることです」(参照:2コリント3,18)と聖パウロは言っています。 キリストの内に私たちは栄光を受け、私たちに与えられた聖霊が、それについて証ししています。 そう言う訳で、イエスを真似ることと、キリストと同じ様に愛することを、神は私たちに強く頼まれています。
イエスは新しい掟について話しました。 事実、新しいものとは、掟ではなく、むしろその掟を行うための新しい愛し方です。 イエスが私たちを愛したように、互いに愛し合わなければなりません。 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれています」(参照:ローマ5,5)。 私たちはこの聖霊のおかげでキリストのように愛すること、また神の栄光を現すことができるのです。
神の栄光と愛の掟は固く結ばれている、と聖ヨハネの福音は教えています。 この世を救う父なる神の限りのない愛を啓示するイエスは、自分のように愛する掟を私たちに与えます。 イエスに頼まれたことを実践することで、私たちは黙示録が描写している物事を実現しています。 「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。 神は自ら人と共にいて、その神となる」(参照:黙示録21,3)と。 言い換えれば、キリストが愛したように互いに愛するなら、私たちは神の国を地上に到来させるのです。 ですから、キリストのように話し、行い、赦し、分かち合い、愛することを拒否するなら、私たちは神の国の到来を遅らせています。 そしてさらに、人々に神への道を閉ざしています。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とイエスは断言しました。 愛は私たちを兄弟姉妹に変化させます。 そして私たちを一致させるのは聖霊ご自身です。 ですから、益々互いに愛し合って、心を一つにして、私たちの信仰を宣言しながら神に栄光を与えましょう。 アーメン。
復活節第6主日C年 2016年5月1日 グイノ・ジェラール神父
使徒15,1-2 22-29 黙示21,10-14、22-23 ヨハネ14,23-29
宗教的な振る舞いの違いのために分裂していたアンティオキアの信者の間で、平和を取り戻すために、エルサレムで使徒たちは最初の教会会議を開きました。 聖霊の教え導きの下で、皆の間で平和を回復させる妥協の道が見付かりました。 そこでバルナバ、パウロ、バルサバと呼ばれるユダとシラスが派遣されたのは、決められたことが適切に実現するためでした。
黙示録の本は私たちに新しいエルサレムを見せました。 エルサレムと言う名は、「平和を基礎としている町」という意味です。 キリストによって選ばれた12人の使徒たちはこの新しいエルサレムの基礎です。 神と平和の君であるキリストの現存は、この町を完全に満たし照らします。 神はキリストと教会の教えによって、ご自分の平和を私たちに与えるという事実を、黙示録の本がはっきりと思い起こさせます。
父なる神の下へ戻る前に、イエスはこの平和を自分の弟子たちに残し与えました。 彼らは、復活されたキリストとの親しい出会いの時がとうとう終わりました。 今は、聖霊の約束が満たす神秘の時です。 言い換えれば、私たちの直ぐ傍に目に見えないキリストの現存と共に、教会の時が始まります。 聖霊は、日常生活の出来事と、私たちの人生の中にある暗闇の場所を、照らしに来るお方です。 私たちがキリストの言葉とキリストを忘れないように、また私たちをあらゆる面で教え導くために聖霊が私たちに与えられています。
もし、私たちの記憶の中で神の言葉が生きているならば、これこそキリストが自分たちの内に現存していることの証拠だと聖ヨハネは理解させようとします。 キリストの言葉を思い巡らすことは、キリストに対して忠実であることの確信です。 なぜなら、ご自分の子イエスの言葉を見つける所に父なる神は住むようになるからです。 「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」とご自分の言葉を守る人に、イエスは約束しました。 そして、聖霊はキリストの言葉の神秘についてだんだん深くなる知識によって、聖霊がその人を愛の完成にまで導きます。
この大切なことを理解するならば、神の平和が必ず私たちを満たすでしょう。 神だけが与えることができるこの平和こそ、光の内にイエスの教会を栄光に輝く完成にまで導きます。 そのために私たちは皆平和を望まなければなりません。 この平和が人生の全ての試練を乗り越えるために、力と平穏を与えるので、私たちは神の言葉への飢えと渇きを持ち続ける必要があります。
最近の人々は、自分の携帯電話で、直ぐに忘れてしまうメッセージを読んだり、送ったりします。 残念なことに、自分の子イエスにおいて神が与えた永遠の命のメッセージに心を配り、その言葉を聞いたり読んだりする人は少ないです。 ですから、命、平和、喜びを与え、天にある永遠に留まるものを探し求める賢明さを、私たちに与えてくださるように聖霊に願いましょう。 私たちがイエスを愛している最高の証拠は、彼の言葉を実践することです。 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」とイエスは言いました。 このいつくしみの特別聖年の間に受けた様々の恵みによって、イエスに対する私たちの愛と忠実さが、ますます確かなものとするための助けになりますように。 そうすれば、私たちに与えられた聖霊が、愛の完成にまで導くに違いありません。 アーメン。
主の昇天の祭日 C年 2016年5月8日 グイノ・ジェラール神父
使徒 1,1-11 ヘブライ 9,24-28;10,19-23 ルカ 24,46-53
主の昇天の祭日は、キリスト教的な信仰の基礎の二つの柱をもっています。 それはキリストの御托身(受肉)とご復活の出来事です。 私たちの人間としての肉を三位一体の神のうちに入らせるために、「肉となった」み言葉であるイエスは、父なる神のもとに昇っていきます。 罪と死に打ち勝った復活されたイエスは、昇天することによって、三位一体の神秘の親密さのうちに全人類を導き入れます。
自分の弟子たちの信仰を強めるために、復活したイエスは四十日の間、彼らの前に現れました。 今度は昇天することで、ご自分を信じているすべての人を父なる神の直ぐそばに引き寄せるのです。 私たちを罪と死の暗闇から、愛と命の光へ移すように、イエスは父なる神のそばへ昇天して戻ります。 実にキリストの昇天は、私たち個人の復活の門を開きました。 先程申し上げたように、栄光に輝いているキリストの体は、三位一体の神のうちに私たちの肉を入れました。これこそイエスご自身ののぞみでした。「父よ、わたしとあなたが一つであるように、彼らもわたしたちと一つになるようにしてください」(ヨハネ17,21)。「神が人間になったのは、人間が神となるためでした」と宣言する教会の教父たちは、この神秘を易しく説明します。 確かに、「み言葉が肉となった」のは、私たちの肉を復活されたキリストの肉と一致させるためでした。
「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」(ヨハネ16,7)とイエスは言いました。 しかし同時に彼は「世の終わりまで、私たちと共にとどまる」(参照:マタイ28,20)ことを約束しました。 このように話したイエスは、その不在と存在によってご自分を啓示します。 言い換えれば、イエスはまるで絶えず離れては絶えず戻って来る、何回も失われては何回も見つけられる聖書の雅歌の愛する者のようです。 そしてまた、私たちを神の神秘の中にもっと高く、もっと深く導くためにイエスは私たちの心の奥底に留まっています。 強制をせずに、イエスは私たちを忠実に伴います。 謙遜に私たちを伴いながら、私たちを神の無限の状態に与からせるために、イエスは私たちの心を開きふくらませるのです。
謙遜で、心の柔和なイエスはいつも教会の秘跡のうちに存在します。 この秘跡は聖霊の働きかけによって既に私たちを復活させています。 さらに、教会のうちに存在するイエスは神のいつくしみに私たちを与らせ、そして全ての人に注がれている神の愛について証しさせます。 ご存知のように、今日、ここでイエスの名によって集まっている私たちの間に、イエスは確かに存在しています。 ですから、主の昇天の喜びを深く味わいましょう。 なぜなら、主の昇天は既に私たち自身の昇天ですから。 アーメン。
聖霊降臨C年 2016年5月15日 グイノ・ジェラール神父
使徒2,1-11 ローマ8,8-17 ヨハネ14,15-16、23-26
聖霊は愛の霊です。 そよ風のように、私たちの内に愛する能力を新たにするのが聖霊です。 神が私たちの心に留まるように、そして私たちが神と親密に一致するように聖霊が与えられています。 私たちは神の愛、喜び、英知と神性を与える聖霊を受けるために、父なる神によって造られ、キリストによって贖われました。
昔、聖霊はほんの少しの預言者に一瞬のうちに与えられたが、今はイエスを信じる人々に、また特にキリストの教会に聖霊がずっと与えられています。 そして、信じる一人ひとりがお互いに未来に向かって生きることができるように聖霊が助けます。 「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 『教会の中で』働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 一人一人に聖霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。」(参照:1コリント12,4-7)と聖パウロは、コリントの信徒への手紙の中で述べ伝えています。
事実、私たちが他の人々の利益のために聖霊の賜物を使う時、聖霊が私たちを変容させます。 なぜなら、私たちの周りにある世界を変化させるために、聖霊の賜物は私たちを通して、また私たちによって働くからです。 聖霊は神と全人類の間の仲介者であるので、この世の中で効果的に働くために、私たち自身と私たちの信仰の支えを必要とします。 このやり方こそが、聖霊の謙遜を具体的に表しています。 ご自分の神としての命に私たちを絶えず与らせるために、キリストは聖霊によって私たちの内に、また私たちと共に生きているのです。 そういう訳で、聖パウロは「聖霊によって導かれる」ことを強く勧めています。
人が真理に基づいて話せるように、聖霊は私たちにご自分の自由を与えます。 聖霊降臨の日に使徒たちは「聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだしました」。 事実、聖霊の賜物が言葉によって示されているのです。 なぜなら、肉となったみ言葉であるキリストによって、聖霊が私たちに注がれているからです。 神の名によって話すという恵みは、聖霊が全人類に与えた一番初めの最も美しい賜物です。 復活されたキリストにおける信仰によって、私たちが自分の周りに神の不思議な業を宣言するために、聖霊は私たちをキリストの証人とします。 命を与え人を救う真理の言葉を私たちの内に語られる方は、聖霊です。 「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教えてくださる」(ヨハネ14,16)、「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(ヨハネ16,13)とイエスが約束されたことを思い起こしましょう。
ですから、人とのすべての出会いの際に、自分の信仰を宣言することを恐れずに、同時に聖霊の助けを願うことを忘れないようにしましょう。 私たちがどんな状況と場所に置かれていても、聖霊は私たちの内に私たちと共に私たちによって効果的に働くことを望んでいます。 世の救いと神の栄光のために聖母マリアと同じように、私たちも聖霊の望みに素直になることを学びましょう。 人々へ向かわせる聖霊に導かれて、自分の内に命の言葉であるキリストと繋がって、私たちは必ず完全な真理に辿り着くことができます。 そうであれば、詩編104編が述べている言葉を自分自身のものとしましょう。 「聖霊よ、私たちにあなたの息を送って地の面を新たにしてください」(参照:詩編104,30)。 アーメン。
三位一体の祭日 C年 2016年5月22日 グイノ・ジェラール神父
箴言 8,22-31 ローマ 5,1-5 ヨハネ 16,12-15
三位一体は命と愛と謙遜の神秘です。 神は愛、真理と命そのものです。 永遠の昔から神はご自分の子イエスを無限な愛で愛しておられる。 この愛は聖霊です。 燃える火と炎とそこから発する熱から離れることができないのと同じように、三位一体の神の一致は切り離すことができません。 ローマ人への手紙の中で聖パウロは神の三つの名をあげました。 「わたしたちの主イエス・キリストによって神との和解を得ています…わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5,1と5)。
三位一体の神秘を少しだけ理解するために、また私たちがこの知識を受け入れることができるように、イエスはご自分の父について語り、そしてご自分の霊を私たちに与えました。 三位一体の各ペルソナの間に「交わり」と「一致」と「謙遜」の模範があります。 私たちは神の似姿に造られているので この模範を真似るべきです。 「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。 だから、わたしは、『聖霊がわたしのものを受けて、あなた方に告げる』といったのである」とイエスは教えました。 三位一体の神は謙遜と寛大さの神秘であり、各ペルソナは他のペルソナを見せて紹介するからです。
父なる神は、私たちを愛し命を与えます。 御子である神は、私たちに語りまた教えます。 聖霊である神は、私たちに真理をことごとく悟らせ私たちを聖とします。 父なる神は私たちを救う御子によって、また私たちを義とする聖霊によってご自分を啓示なさいます。 神について話しても、説明しても、教える真理は遥かに神の事実から離れています。 そう言う訳で、大切なことは三位一体の神秘を理解することではなく、むしろ神の無限な愛が私たちを掴むようにさせることです。
私たちを変容させるためと同時にこの世を新たにするために、三位一体の中心から湧き出る神の愛が、私たちに与えられています。 従って、神のうちに、神によって、神と共に生きることは私たちの使命です。 神ご自身は私たちの人生の起源と目的です。 私たちが神の似姿に造られ聖霊が注がれたのは、私たちが三位一体の神の愛する心のうちに永遠に生きるためです。聖パウロが思い起こさせるように、私たちは「神の子とする霊を受けたので、この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです。 この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、私たちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(参照:ローマ8,15-16)。
神が愛そのものだから、私たちは真の愛で愛するたびに、神の命と栄光に与っているのです。 同時に、神が私たちの父であり、私たちはその子供であることを現しています。 またイエスが私たちに頼んだように、互いを互いに愛し合う時に、私たちは三位一体の神秘に参加しています。 この神秘の中心で、神は愛する方と同時に愛されている方であり、そして愛する方と愛されている方の一致する愛であります。 私たちは永遠に神のうちに生きるように召されているからこそ、三位一体の祭日は私たちの祝いです。 ですから、一つになって、喜びのうちに大いに神に感謝しましょう。 アーメン。
聖体の祭日 2016年5月29日 グイノ・ジェラ−ル神父
創世記14,18-20 1コリント11,23-26 ルカ9,11-17
イエスは私たちのために自分の命を与えました。 それゆえ、私たちの日常の糧となることによって、イエスは私たちの命となりました。 そういう訳で、聖体の祭日に私たちは皆、イエスのみ言葉のパン、また与えられているイエスの命のパン、さらにイエスが私たちに提案する兄弟姉妹に奉仕するパンを味わうように招かれています。
肉となった神の言葉であるイエスは、命のパンです。 ご自分の言葉と教えに耳を傾ける人、そしてご自分に従う人々をイエスは豊かに養います。 父なる神を深く知るために、また神の国で一緒に永遠に生きることを望むように、イエスは命の言葉で全ての人を誘います。 ここで行われている全てのミサ祭儀は、いつも神のみ言葉を聞くことによって始まります。 聖体の小さなかけらを落とさないために気を配るように、同様に注意深く私たちはミサの時に宣言されている神の言葉を一つひとつ失わないために、気を配るようにと、4世紀の教会の教父である聖ヒエロニモは言いました。 神の言葉と聖別された聖体もイエスの現存を持っているからです。 ですから、今日、聖霊が私たちに神の言葉への飢えと渇きを持つように、そしてイエスにこの言葉を深く味わうように恵みを願いましょう。
私たちがイエスの命に生きるために、イエスはご自分の命を私たちに与えて下さいました。 言い換えれば、キリストは私たちの内に生き、そして私たちはキリストのために生きているのです。 永遠の命のパンであるイエスは、復活した者としての命で私たちを満たすのです。 キリストの血は、私たちを罪から清め、死から解放します。 御体と御血によってイエスは、永遠の命の糧としてご自分を差し出します。 それは、イエスの体が私たちの体、イエスの血が私たちの血となるためです。 聖パウロが説明したように、もはや生きているのは私たちではなく、むしろイエスが私たちの内に生きておられる(参照:ガラテ2,20)のです。 確かに、「わたしたちにとって、生きるとはキリストである」(参照:フィリピ1,21)と私たちも聖パウロと共に宣言できるでしょう。 また、キリストの御体と御血をいただくことは、三位一体の命に与ることです。 なぜなら、私たちはイエスと共に一つの体、一つの魂となっているからです。
イエスは兄弟姉妹に奉仕するために、私たちを強く招く愛のパンです。 「あなた方がこの人々に食べ物を与えなさい」(参照:ルカ9,13)、「 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(参照:ヨハネ13,15)とイエスは私たちに願っているのです。 私たちが、与えようとしている自分自身のほんの少しの部分で、キリストは命を与えるご自分の救いの業をし続け、完成させることができます。 イエス自身が私たちを愛したように、お互いに愛し合うことこそ、イエスが私たちに要求していることです。 なぜなら、キリストの御体と御血をいただくことによって、私たちは確かにこの世を救い、全ての人にご自分のいつくしみを注ぐイエスの手と体となっているからです。
今日、私たちを通して神がなさる全ての不思議な業のために大いに喜びましょう。 神の愛は私たちの弱さの中に完全に発揮されるので、神に感謝しましょう。 はい、その通り「主はわたしたちに偉大なことをなさいましたから、その御名は尊いです」(参照:ルカ1,49)。 アーメン。
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